山中宗房は通稱を鴻池又四郞と云ひ、宗古と號した。【堺の人】【鴻池家に入る】堺の人で、大阪鴻池氏の女婿となり、後分家した。【懷德堂の隆興に努む】享保四年三宅萬年の門に入つて、經史の業を受け、(近畿墓跡考)中村睦峰(三星屋武右衞門)、富永芳春(道明寺屋吉左衞門)、長崎克之(舟橋屋四郞左衞門)、吉田盈枝(備前屋吉兵衞)等と共に、懷德堂の隆興に力めた、同志の一人である。(懷德堂一覽)配は山中氏、名を津といふ。嗣あり、宗貞と稱した。【墓所】寶曆四年二月六日享年六十三歳を以て歿し、大阪西高津顯孝庵(現東區中寺町)に葬つた。法號を復翁宗古居士といふ。(近畿跡墓考)