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古家魯嶽】
古家太郞兵衞名は殷阜、魯嶽と號した。別に
足堂、
翠雲等の號がある。【新地方勘定役】古家氏の第十三世で隱居して名を
仙太郞と改め、(古家文書)新地方勘定役を勤めた。(新地手方覺)古家氏は堺の著姓で、代々魚問屋を業とし、富豪の聞えがあつた。魯嶽好んで和漢の書を讀み、詩書及び國文を能くし、俳諧を嗜み、兼ねて丹青にも親しんだ。(古家文書)【
清名家文粹上梓】曾て清人陸朗甫編輯するところの、切問齋文鈔を得、原題を改めて
清名家文粹と曰ひ、篠崎小竹、
奧野小山に序文を乞ひ、弘化四年自費を投じて之を上梓した。同書は清朝諸大儒の格言至論を輯めたもので、游戲應酬に屬するものは一篇をも雜へず、魯嶽の意蓋し此書を讀む者をして身を反して德を修め、以て之を國家に及ぼし、泰平の餘澤に報いんとするもので、原題を改めたのは、雅名を撰んで、讀者をして新鮮の氣を促さしめんがためであつた。(
清名家文粹序、
小山堂文鈔上)【文墨の士を愛友】【交友】平生文雅の土を愛し、且賓客を待つこと甚だ渥く、故に四方文墨の士の堺に遊ぶものは、一たびは必ず其門を訪ひ、淹留數旬或は年餘に及び、從つて知名の士と、交るもの頗る多く、廣瀨淡窻、同旭莊、貫名海屋、篠崎小竹、
奧野小山、
鳥海雪堂、
田能村直入等の如き、其主なるものであつた。又頗る德望あり、友誼にも厚く、始め旭莊來堺の際魯嶽首として交りを訂び、文雅の士を勸めて就學せしめ、又灘、
兵庫等の姻戚に説いて、聽講せしむる等、頗る斡旋した。旭莊の名を上國に爲すに至つたのに與つて力が有つた。【旭莊魯嶽を德とす】然も旭莊の堺を去る堺人忽ち之を忘れ、旭莊として人情の浮薄を歎ぜしめたが、唯魯嶽は
一心にして渝らず、これ其衆望の囑するところであると述べてゐる。(日間瑣事備忘)其華甲の壽に方つては、文雅の士の賀詞を寄するもの頗る多かつた。安政二年十月七日享年七十歳を以て歿した。法號を釋圓信といふ。旭莊訃音を聞くや、津田琮壽に囑して、弔書を其家に致し、且悼詩七絶を贈り、(日間瑣事備忘)
田能村直入も亦同じく挽詩を贈つた。
第六十五圖版 古家魯嶽筆蹟