菅奇淵は花屋庵又は大黑庵と號した。【堺の俳人】【三柳の門人】堺の人、大阪に住み、(近畿墓跡考)俳道に力めて不二庵二柳の門に入り、盛名を馳せた。(浪速俳諧系譜、近畿墓跡考、花屋日記考訂餘言)高弟に花屋庵鼎左がある。(浪速俳諧系譜)奇淵は翁反故を校合し、且つ頭註を加へて居る。【松風の會式を興こす】曾て芭蕉翁が九月二十一日に、清水浮瀨の茶店に遊んで、「松風の軒をめくりて秋くれぬ」の咏吟があつた因みによつて、每年其日には浮瀨四郞右衞門の亭で、松風の會式を行ふた。(花屋庵奇淵校、苞蕉翁反故上)【著書】著書に奇淵七部集、俳諧四季類題いろは引、俳諧四部集、芭蕉袖草紙等がある。(大阪名家著述目錄)天保五年五月十八日大阪で沒した。享年七十三。(近畿墓跡考)【墓碑】上本町六丁目寶樹寺に墓碑がある。碑面法眼菅奇淵之墓の八字は門人鼎左の書で、麗巷社中の建てたものである。