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(二六七)木屋彌三右衞門

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 【堺の海外貿易家】木屋彌三右衞門は海外貿易家中錚々たる一人で、慶長十一年七月二十一日及び同十二年八月四日、【暹邏及び柬埔塞に渡航す】幕府から暹邏(異國御印帳七)同十三年七月二十五日柬埔塞(異國御印帳九)同十四年七月二十五日暹邏(異國御帳二、一)同十七年八月六日重て暹邏(異國渡海御印帳二)への渡航印狀を得、十八年六月二十六日歸朝、家康に暹邏事情を答申し、(通航一覽卷二百六十五、駿府記)十九年正月十一日更に暹邏(異國渡海御印帳二)元和元年九月九日呂宋(異國渡海御印帳四)同八年九月二十七日又暹邏渡航の印狀を得、歸國に際して彼官府から鳳首を與へられた。堺の町人八丈家は彼の親族關係で、印狀及び鳳首共に同家に所藏して居たと、全堺詳志に記されてゐる。(全堺詳志卷之下)同九年閏八月暹邏の使者二條城に登城し、家康之を大廣間に引見した。【暹邏の使者の通詞となる】彼方は使者二人、此方は通譯一人で、此方は通詞として彌三右衞門陪席した。當時圓頂であつたから、十德を着て其席に出た。(大献院殿御實記卷一、通航一覽卷二百六十八)三好兩家記に永祿十年二月十六日三好左京大夫殿(義繼)堺津において、三人衆の前を隱れ忍び、北庄材木町木屋へ御宿替候て、同二十六日に又松永方へ御出の由候云々と記して居るのを見ると、(三好兩家記)彌三右衞門は恐らく此木屋の後裔で、材木町に居住して居つたものであらう。