ビューア該当ページ

(二九三)中村富十郞

412 ~ 414 / 897ページ
 【八幡屋慶子中村富十郞八幡屋慶子と稱した。天明六年大阪に生れ、始め四世團藏の弟子市川甚之助の門に入り、熊太郞と稱して、子供芝居へ出勤した。文化九年の冬三世歌右衞門の弟子となり、【中村三光】中村三光と改名して、大阪中座に出で、【三世松江】更に十年十一月三世松江と改め、【江戸中村座の舞臺に上る】江戸に下つて、中村座の初舞臺に上つた。居ること約四年、好評を博し、十三年九月布引に小萬、褄重に喜三郞妹お玉、七小町の所作を演じ、之を名殘狂言として上京した。十一月京都北側の芝居に出勤し、爾來京阪及び兵庫の間に往來し、文政五年十一月再び江戸の中村座に現はれ、滿一年して京都に歸つた。【堺に興行す】是より京阪及び堺の各所に出勤し、同十年四十二歳の時には、既に女形の卷頭であつた。天保四年十一月大阪角座に於て、三世歌右衞門の斡旋により、【二世富十郞】始めて二世富十郞を襲名した。時に四十八歳であつた。爾來京阪に、妙技を演じ、十二年京都南側の芝居に、戀女房に重の井、椀久に女房おさんを、一世一代として、京都の劇壇引退を披露した。(近世日本演劇史)然も翌十三年には驕奢の生活幕府の忌諱に觸れ、【大阪を追放されて堺に來る】大阪を追放せられ、寓居難波村を去つて堺に來り、【戎之町に小間物屋を開業す】戎之町大道に八幡屋と稱する小間物屋を開業した。贔屓客は切りにこの地に興行するやうに慫慂した。富十郞之に應ずる樣もなかつたが、松原武次郞、田中猪藏等熱心に再起を促したので、漸く之に應じ、【堺に於て一座を組織す】中村歌七其他の弟子を加へて一座を組織し、始めて新地北芝居に初狂言千代萩政岡、切狂言娘道成寺を演じ、京阪の狎客多く來觀し、三十日程の興行を通して大入を占めた。(松原武次郞世話事成就扣)嘉永二年又堺南芝居に彦山の一味齋娘おその、日高川の庄司娘清姫を演じ、(近世日本演劇史)其舞臺を根據として、京都北側の劇場へ出勤して、心染川に腰元ふさの、女房おふさ、五大力に藝子菊野等に扮して、更らに名聲を高め、それより伊勢、名古屋等へも興行の旅に上つた。(役者早料理)同六年江戸に下り、市村座に出勤し、中村福助の口上で大當りを取り、(役者武勇競)後堺に歸り、安政二年二月十三日享年七十五歳を以て歿した。【墓所】堺本成寺(寺地町東三丁)に葬り、法號を妙松院光林三光日暉居士といふ。富十郞當時東に岩井半四郞あり、西に二世中村富十郞ありといはれたほどの、【女形の頭梁】代表的女形で時代物と世話物とを問はず、世話女房にも娘方にも適し、姿態は更らなり、音調明晰科白朗らかに聞こえ、唱歌音曲にも堪能であつた。【餘技】藝道の餘暇には、慶子と號して丹青に親しみ、又俳句を能くした。(近世日本演劇史)大阪では難波の太夫と稱せられた。(役者投扇曲)