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(二九六)喜多七太夫

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 【喜多流謠曲の始祖】喜多七太夫は喜多流謠曲の始祖で、名は長能、始め八之丞と稱した。【市之町中濱に生る】堺市之町中濱に生れ、櫻之町に住した。家は扇屋であつた。或はいふ父は醫を業とし願慶と稱したと。兄萬之丞は豐臣秀賴に仕へ大阪陣に戰死し、二男は父業を繼いで陽春と號した。七歳の時能師勘太夫の弟子となり舞踊の妙を得た。(堺鑑下、攝陽群談卷第十、鹽尻卷之六十)【金剛新六の門に入る】後金剛新六の門に入り、技藝益々上達した。七太夫大阪夏ノ陣に、【大坂に籠城す】今春大太と共に籠城し、五月七日眞田幸村に從ひ、大太夫は騎馬、七太夫は徒步で德川陣に亂入し、武名を擧げたが、落城後、大和に逃れ、後藝道を以て免され、【幕府に仕ふ】幕府に召抱へられ、命を以て其師金剛の家に居つた。(猿樂傳記上、能樂全史)當時金剛の主右京猶ほ幼少であつたが、後見金剛座附の脇師高安太郞右衞門、七太夫の名聲を忌み、之を斥けんとして、反つて幕府の咎を被つた。そこで七太夫は別に一派を樹てることを許され、觀世、寶生、金剛、今春の四座に次いで待遇せられ、扶持方三十六人、配當米二百俵を下賜せられた。七太夫卽ち金剛流に自家獨得の型を立てた。【喜多流の公許】喜多流として一座を許されたのは元和四年で、承應二年正月七日卒去した。幕府では四座の家元を太夫と云ひ、喜多のみは七太夫若しくは十太夫と藝名を呼ばしめた。【子孫】以來現代六平太に至るまで連綿として子孫相繼承して居る。(能樂全史)