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(三〇二)初代 竹本春太夫

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 【堺の人、粉屋與兵衞竹本春太夫は堺の人、饂飩粉を商ひ粉屋與兵衞と稱した。【竹本大和掾の門弟】竹本大和掾の門弟で、大和掾が内匠太夫と稱した頃からの門人であつた。(竹本攝津大掾)延享元年十二月豐竹春太夫の名で、【東の座出勤】始めて東の座へ出勤して、遊君衣紋鑑の序中を語つて評判よく、同二年二月詩近江を語つた。同年十一月師匠の内匠太夫は、豐竹上野少掾を受領して、豐竹座を繼ぐに及び、【豐竹座出勤】春太夫も共に出勤した。同三年の秋越前少掾、京都に一世一代の興行の際には粂仙人、吉野櫻に何れも出勤した。延享四年二月裾重紅梅服、同五年正月容貌出入湊を語つた。【堺に出演】同年十月越前少掾が堺で一世一代を勤めた際には、東鑑御卷狩を語つた。寬延元年忠臣藏事件から、師匠と共に東を退座して竹本座に入つた。寶曆二年十一月西の芝居で、伊達錦五十四郡の興行に、【竹本春太夫竹本春太夫と改名した。同三年五月愛護雅名歌勝閧に、道行のシテを語つて評判がよく、同四年二月菖蒲前操弦、同年十月小野道風青柳硯の二の切勘當の段を語り、引續き出勤して居つたが、同九年五月劇場火災の爲め假家で興行を續けた。同十年七月初日に極彩色娘扇、十一月には十日間、曾根崎新地の芝居で年忌座鋪操、同十一年正月安部晴明倭言葉四段目切を語つた。同十三年八月師匠大和掾が一世一代に、諸葛孔明鼎軍談、切に御前掛淨溜漓相模を共に勤め、同六月御祭禮客車操を語つた。十一月堺に赴いた。然るに中太夫同伴で江戸に出勤中、【政太夫名跡の紛糾を解決す】二代政太夫歿し名跡に就て、土佐太夫、中太夫、染太夫の間に爭を生じたが、春太夫の斡旋で、中太夫が政太夫を襲名することゝなり、爰に圓滿なる解決を見ることゝなつた。同五年二月北堀江阿彌陀池門前座に出勤して、粧水絹川堤を、同七年六月同所に於て夏衣裳雁染、同年十一月故人吉田文三郞十三囘忌追善興行に、道頓堀西の芝居へ出勤し、スケとして忠臣講釋道行を語つた。同八年正月妹脊山婦女庭訓三段目掛合と、道行四段目の切を語つて、古今の大當りと稱せられた。同年四月お蔭參り流行に際し脚色して、艶祝詞太々神樂と題し出語り、出遣ひで出勤した。同年十二月大和掾十七囘忌、二代政太夫十三囘忌追善興行に出勤し、櫻御殿と五十三驛とを、每日交互に語つた。其間又屢々江戸及び京都に興行した。安永七年九月京都に、一世一代を興行して、前先代荻、【名殘り興行】切に花系圖都鏡を語つたのを名殘りの興行とし、爾來退隱して後進の誘掖に努めたが、天明四年三月十九日歿した。法名を實乾相説禪定門といふ。【墓所】墓碑は大阪市荒陵山四天王寺西門納骨堂の傍に存してゐる。二代春太夫の子、炭屋伊兵衞の建設したものである。(淨瑠璃大系圖卷之六)春太夫は美聲に加ふるに、一意藝道に精進して、當代の名人と稱せられ、【權威ある名目】春太夫の名目をして、斯界に於ける名譽の稱號たらしめた。(竹本攝津大掾)