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(三〇三)初代 竹本咲太夫

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 【堺の人】【二代竹本政太夫の門人】竹本咲太夫は堺の人で二代竹本政太夫の門弟である。後大阪に出でゝ通稱を堺屋三右衞門と稱した。寶曆九年九月、竹本岬太夫と稱して、出座し、太平記菊水の卷を語つた。爾來同十年、十一年續いて出勤し、十二年九月、奧州安達原の興行中に、竹本咲太夫と改名した。【初代竹本咲太夫】卽ち咲太夫の初代である。十三年京都西條の芝居へ出勤、四月歸阪した。五月京羽二重娘形氣を勤め、明和三年正月、本朝二十四孝に、化物屋の段を勤めて、大當りを占めてからは、續いて好評を博し、六年十二月、近江源氏新物の序切と六ッ目、同八年妹脊山に序切と受領の段を語つた。天明元年九月、堀江西の芝居に、襤褸錦今樣織留を興行した。此際咲太夫の名稱を、門弟名太夫に讓り、【竹本男德齋竹本男德齋と改名して出勤した。同三年四月、竹本座西の芝居に、伊賀越道中雙六沼津の段、口半分と伏見の段を語つた。同七月曾根崎新地の芝居に女節用操鏡を勤め、【名殘りの出演】之を名殘り狂言として、休養中病に罹り、寬政九年閏七月十日歿した。法名を釋宗圓といふ。【墓所】墓碑は大阪市道頓堀法善寺の墓地にあつて、表面に男德齋墓、側面に釋宗圓と刻まれてゐる。【門下の高弟】門人には二代竹本咲太夫、二代目竹本岬太夫等があり、【同門の堺人】同門の堺人には、竹本左倉太夫櫻木平兵衞竹本日佐太夫小西新右衞門佐野屋伊兵衞等がある。(淨瑠璃大系圖卷之四)