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(三一二)竹澤權右衞門

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 【堺の人】竹澤權右衞門は堺の人、或は泉南尾崎の人ともいふ。【井上播磨少掾の門弟】井上播摩少掾の門に入り、盲目の爲め淨瑠璃三絃の修行をした。當時恰も山川春夕といふ、箏、琵琶に堪能な法師が、淨瑠璃三味線の工夫を凝し、長崎から上阪して、井上播摩少掾の宅に寄寓し、教授してゐた際に、權右衞門も教を乞ひ大に修練の功を積んだ。時に竹屋庄兵衞なる者があり、金主となつて、清水理太夫と權右衞門をして一座を組ましめ、安藝に下り、宮島で芝居を興行したが頗る好評で、大入を占めて歸阪した。尋いで又庄兵衞金主となり、大阪道頓堀西の芝居を買收し、貞享二年二月櫓幕を上げた。此時理太夫は竹屋庄兵衞と義を結んだのに因つて竹本義太夫と改名し、權右衞門も亦姓尾崎氏であつたが、竹屋の竹と元祖澤角の澤とを結合して、【尾崎を竹澤と改む】竹澤と改めた。同年同月始めて西の芝居に世繼曾我を、元祿十六年五月、前淨瑠璃は日本王代記、近松門左衞門作の曾根崎心中を上場した。これ世話淨瑠璃の始めで、出語り、出遣ひの嚆矢である。是より先き、義太夫は筑後掾を受領したので西の芝居は、筑後の芝居とも呼ばるゝやうになつた。正德二年三月、前に傾城掛物揃、切に丹波與作道中雙六の段に、【和哥竹政太夫の三絃を勤む】和哥竹政太夫が、始めて筑後座へ出勤し、出語りをなし、三絃は權右衞門が之を勤めた。同三月天神記天拜山の段ふし事、【竹本彦太夫の三絃を勤む】出語り竹本彦太夫卽ち後の大和太夫、絃三は權右衞門が之を勤めた。同四年九月多年親交のあつた、筑後掾歿し、己も亦追追老境に達したので、【鵜澤三二に名跡を讓る】門人鶴澤三二に西の座の立三味線を讓つて退隱し、專ら後進の誘掖に力め、老後の樂として卒去した。(淨瑠璃大系圖卷之十八)