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(三)島田 豐

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 島田豐諱は良知、通稱は豐、父丈太夫(諱は直道、本姓は速水氏。島田常樂の養子となる、配は卽ち其女。)の第二子で、【岸和田藩士】家世々岸和田藩に仕へた。豐弱冠家を嗣ぎ、文久三年八月側役となり、後小納戸役に轉じた。明治三年廢藩置縣に際して十月岸和田縣權少屬となり、專ら民政を掌つた。五年正月岸和田縣堺に併合せらるゝに際し、【堺縣出仕】堺縣十五等出仕となり、(晚晴樓文鈔下(島田君墓表))尋いで史生となり、(明治六年官員錄)後六等屬に進み、警部を兼ねた。鹿兒島の亂起こるや、朝廷諸縣に檄し、屬官を九州に派遣して、【九州亂民撫循の員に列す】亂民を撫循するに方り、豐選ばれて其員に列して、任に赴いた。亂平ぐるに及び、【復職】同年十月還つて警部に復職した。(晚晴樓文鈔下)十一年五等屬に進み、警部を兼ねた。(明治十一年官員錄)十二年夏虎疫流行に際し大和地方の檢疫に從ひ、高田にあつて病に感染し、力めて下市に至り、自ら起つこと能はざるを悟り、筆紙を索めて何事をか書かんとしたが、終に瞑目した。實に八月十五日のことで、享年四十一であつた。堺の東郊王子飢に荼毗し、【墓所】九月遺骨を眞光寺の塋域に葬つた。【資性】豐資性溫雅讀書を好み繪事を解し、休暇には安座して風流を娯んだ。其下僚に臨むに和惠、訃報に接して人皆痛惜した。(晚晴樓文鈔下)