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(四)乾 楯雄

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 乾楯雄幼名駒次郞、【十津川の人】大和十津川鄕の人で、父を丘衞門といふ。嘉永三年五月四日出生。十六歳京都に遊學し、白河の高知藩邸に入り、【英國式の操練を學ぶ】英國式の操練を學んだ。時偶々王政復古に際し、侍從鷲尾隆聚紀州高野山に駐屯するに當り楯雄起つて之に從ひ、【德川氏の殘兵を擊破す】慶應四年正月德川氏の殘兵を紀伊見嶺に擊つて戰功あり、官金若干を賞賜された。四月朝廷十津川鄕士を徵して親兵を編制するに際し、【親兵の小隊長となる】選ばれて其小隊長となつた。明治二年四月函館五稜廓の戰に從軍し、六年一月神奈川縣邐卒長となり、六月司法省十二等出仕に轉じ、【司法官に歷任】少解部判事補に歷任し、或は山梨、大阪に轉じ、在官凡そ八年に亙つた。楯雄人と爲り、剛毅明敏、法官として審理果斷、訟廷清肅大に先途を囑目せられたが、大阪在任中疾を得て辭職、十三年四月四日享年三十一歳を以て歿し、堺妙國寺の瑩域に葬つた。(墓誌)