大西五一郞は安政五年八月、堺甲斐町西四丁に生れ、五蕚と號した。(大西五一郞氏報告)家は代々具足屋と稱して兩替商を營み、堺屈指の富豪である。明治十四年銀行條例に則り、營業方針を合資組織に改め、大西銀行を興こし、【大西銀行頭取】頭取に推され、金融界に活躍し、(私立大西銀行一件)終身其任に當つた。身を公職に投じたのは、十二年堺區學區取締に就職したるに始まり、十三年勸業世話掛長、十四年堺區協議費理事或は同七聯合町會議員及び議長、十七年八月堺區學區聯合會議員等に選まれ、二十二年四月市制實施と共に市會議員となつた。同年七月選まれて收入役に就任し、二十六年九月退任、【堺市長】次いで二十九年二月市長となり、爾來政務に鞅掌し、三十八年九月自ら其職を退いた。爾來、堺商業集會所議員及び副會頭、大阪府勸業諮問會員、所得税調査委員、第三囘堺製産物品評會委員、堺商業會議所議員及び副會頭、堺市參事會員、徵兵參事員、堺市勸業委員長、市立堺商品陳列所長、第五囘内國勸業博覽會評議員、日本赤十字社堺市委員長或は同委員部協贊員及び明治神宮奉贊會大阪支部評議員等幾多の重要なる職務に就いた。【衆議院議員】四十一年五月衆議院議員に當選し、四十五年五月及び大正四年三月再選せられ、憲政會に所屬した。其間、三十七、八年事件の功により、勳六等旭日章、四十五年韓國併合紀念章、大正四年大禮記念章及び同五年には、大正三四年事件の功により、勳四等瑞寶章を授與された。六年一月偶々衆議院の解散に際して歸鄕し、有志の推擧により、再起を畫策しつゝあつたが、二月二十三日大濱旭館の長節會に列席中、急性腦溢血症に罹り、享年六十歳を以て歿し、遺骨を超願寺に葬つた。法號を大正院信空光譽實道居士といふ。(履歷書、大西文書、大西五一郞氏報告)