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(一二)指吸重孝

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 指吸重孝小字は小八郞、平田信蕃の二男である。八歳の時指吸恭眞に養はれ、嘉永二年名を善兵衞と改め、【魚問屋】家督を嗣いで魚問屋を業とした。【資性】重孝資性孝質直、義を好み、義母及び義姉に事へて、敬愛至らざるところなく、居常神佛を尊崇し孜々として家業に努め、簿記するところは、日々自ら之を點檢して餘さず、往々曉を徹するに至つた。安政六年堺奉行駒井相模守信義人と為りを聞き、【鄕方頭取】召見し擢んでて鄕方頭取となし、惣年寄格に列せしめた。爾來心を自治に致し、市民の歸服するところとなつた。王政維新に際し、元年二月太政官の命を奉じて、會計局に入り、【商社取締役】七月商社取縮役を兼ね、苗字帶刀を許され、【宿老】尋いで宿老となつた。こゝに於て家事を番頭に委ね、專ら力を職務に盡した。【小河知事に信任さる】小河知事殊に重孝と親眤し、事あれば之を謀るを常とした。明治三年病に罹り、四月四日享年四十二歳を以て歿した。(指吸重孝畫像贊)一敏深く之を惜み、輓歌を贈つて之を弔した。(小河一敏追悼和歌)子あり長男を千太郞、三男を猶次郞といふ。(指吸重孝畫像贊)

第八十二圖版 指吸重孝畫像