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(一三)八木榮次郞

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 【丹南村大保の人】八木榮次郞は大阪府河内郡丹南村大字大保の人、森忠左衞門の第三子である。嘉永二年十一月出生し、【八木平兵衞の養子】長じて堺九間町の八木平兵衞に養はれ、長女に配した。【公職】明治九年以來公職に從ひ、或は副戸長に、或は聯合戸長となり、堺區會議員、又は堺市會議員等に當選し、明治二十二年向井村長に選任せられて、收入役を兼ねた。爾來再三選に當り、此間又府會議員、普通水利粗合員等に推された。【向井村灌漑法の施設】由來向井村は、地勢起伏多く、東南高燥、北西に低く、水田は高地に、畑は低地にあつて、灌漑に乏しく、水源を遠く河内の狹山池に引き、數十の村落を經て始めて之を南今池に貯ふるに過ぎず、而かも水量は、耕地の三分一を潤ほすに足るのみで、畑地の如きは、井水と雨水とに倚るの外なく、累年旱損し、水論絶えず、之が爲に逐年轉業のもの多く、一村の興廢に關する一大懸案であつた。榮次郞は多年職を向井村長に奉じ、憂慮惜かず、遂に蒸汽力によるの方法を案じ、【通水工事】明治二十九年始めて、此議を發案して村民に謀り工事を始めた。卽ち大和川の南岸に蒸汽機關を裝置し、砂磧中の水分を吸收して、耕地に灌ぐの計畫で、先づ高塔を建てゝ、水を高處に導き、後壓力によつて埋設せる鐵管若くは土管の幹支線に送り、之を耕地の各要地に延いて、灌漑の用に供するものである。二十九年四月起工し、翌年九月に至つて竣工した。此工費二萬五千圓を要してゐる。榮次郞は此工事を起こすに方り、萬難を排して群議を定め、委員等を率ゐて東西に奔走し、工事を督して遺漏なく、遂に能く事業を完成することを得た。本工事の成功によつて本村積年の困厄跡を絶ち、村民之を德とし、(明治忠孝節義錄第五輯)明治三十一年相謀り、碑石を機關水塔の下に建て、由來を刻して、不朽に傳へた。【向井村水道碑】題して向井村水道碑といふ。(向井村水道碑文)工事施行以來、來觀者多く、平田農商務大臣を始め、他府縣の視察者三府三十六縣に及び、府下神石村及び墨江村等之に倣ふもの續出した。是より先、【南今池增築】明治二十二年南今池を增築して、貯水量の增加を圖り、又隣村五箇庄村と協力して、【大和川堤防腹附工事】大和川の塘隄に、長七百間、幅平均貳間半の腹附工事を完成して、漲溢決潰の患を除き、又從來本村は大仙陵の湟水を引いて灌漑に用ゐたが、二十六年に至り、水量を制限せられ、村民大に困難せるを視、隣村舳松村と協議し、艱苦を上陳して官の容るゝところとなり、遂に從來の二重濠を三重濠に增築せられた。【藍綬褒章下賜】明治三十五年五月藍綬褒章を下賜して、其績を表影せられた。明治四十二年七月三十日享年六十一歳を以て歿した。(明治忠孝節義錄第五輯)法號を榮藍院釋教眞大居士といふ。【墓所】九間町東二丁萬福寺に其墓碑がある。榮次郞の長子平次郞は、亦其後を襲ふて、村長に推選せられた。