【江戸の人】古川躬行は江戸の人、汲古と號した。幼より國典を學び、兼ねて管絃を好み、特に橫笛、琵琶に堪能であつた。(古川躬行翁墓碑銘)【白川家の家司】神祇伯白川家の家司として種々神職等の斡旋をした關係から、其手引によつて、平田篤胤に入門し、勤王家の名を得たものが鮮くなかつた。彼の相模國大山の神職が、徵古隊を組織し、維新の際王事に奔走したるが如き、又富士神職の報國隊、三河の赤心隊等が、孰れも神職出身にして、大に國事に盡瘁したのも、平田派の古學を鼓吹した影響を受けたものであらう。(森田作次氏報告)【經歷】明治四年奈良縣國學館教授に任ぜられ、【菅原神社神職】五年堺菅原神社の神職となり、六年三月河内の官幣大社枚岡神社の少宮司に補せられ、五月大宮司に進み、八年十月内務省九等出仕に任ぜられて、東京に歸つたが、十年六月大和國大神神社大宮司に補し、九月正七位に敍し、十二年四月辭任して、【堺に僑居し著述す】堺に僑居した。これ年來の著述を整理せんが爲めで、黑川春村の遺稿考古畫譜を纂輯したのは此時であつた。【琴平神社祭式顧問】其後十五年八月には讚岐琴平神社の招聘に應じ、祝詞、祭式、儀禮、雅樂等の諮問員として、大に優遇せられた。(古川躬行翁墓碑銘、古川躬行履歷書)躬行亦菊地容齋と親交あり、是より先、明治六年十月其子十足、容齋に囑して、【壽容】父翁六十四歳の壽容を寫さしめた。(訂正增補考古畫譜卷十)十六年五月六日同地に歿し、【墓所】琴陵家の塋域に葬つた、享年七十四歳。(古川躬行翁墓碑銘)【著書】述作の書に、神事略二册喪儀略一册、增訂喪儀略一册、二十八兼題提要一册等がある。(古川躬行事蹟(熱田神宮宮廳報告))