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(一九)由理滴水

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 由理滴水諱は宜牧、滴水は字で無異室と號した。【丹波中村の人】文政五年四月丹波何鹿郡物部村字道路村小字中村上田彦兵衞の三男に生れ、幼時由理氏に子養せらるるところとなつた。天保元年九歳の時、【得度】同國加佐郡行永村龍勝寺の大法和尚に得度、(滴水禪師逸事)同十一年備前曹源寺の儀山に參し居ること十年、【參究】遂に宗乘の奧儀を究めた。(近古禪林叢談、滴水禪師逸事)嘉永二年師命に依り、安藝佛通寺聹翁を助け、三年の後京都嵯峨廣澤の要行院に義堂を訪ひ、義堂の天龍寺前版職を掌り、鹿王院の席を繼ぐに方り、代つて居ること十餘年、【天龍寺西堂】文久二年天龍寺の西堂に補し、義堂に代つて叢林を領した。元治元年長兵天龍寺を燒いた際には、滴水祖堂に入り、開山夢窓國師の木像を負ふて避難した。慶應元年二月本山參暇に任ぜられ、八月要行院に入つた。明治元年五月義堂の後を承けて前版職を掌り、四年本山に住持し、【天龍寺派管長】天龍寺派の管長となり、大教正に補せられた。十二年東上、本山再興の議を成案し、十七年官命により洛北林丘寺に兼住し、大に修繕の功を遂げた。【南宗寺に移幢す】二十二年堺南宗寺僧堂の宗盟を重んじ、夏制の初めより臘八攝心の終るまでこゝに移り、十二月歸京した。斯して二十四年には天龍の住職及び管長職を龍淵に讓つて全く林丘寺に隱栖したが、三十九年再び出でゝ職につき、專ら伽藍再建を司り、三十二年一月二十日、將に大工事を完成して遠忌を嚴修せんとするに當り、遷化した。世壽七十八、法臘七十、遺骨を林丘寺に葬つた。(滴水禪師逸事)遺偈にいふ、「曹源一滴、七十餘年、受用不盡、蓋天蓋地、咄、勉旃勉旃。」と。(近古禪林叢談)滴水詩書に長じ、法筵に赴くこと數十會、【門下の高足】義淵、峩山、龍水、鐵舟、得庵の如き皆其門下に出でゝゐる。(滴水禪師逸事)