橋本左司馬諱は謙、字は子愼、凌雨と號した。(墓誌)【父了叔飾磨より堺に移住す】父了叔は播磨飾磨の人、上京して醫を法眼三角某に學び、後堺に來り、居を新在家町・五貫屋筋に定めた。(河野氏家譜)【醫を三角了敬に學ぶ】左司馬亦京に出でて業を法印三角了敬に學び、終つて歸鄕し、家を嗣ぎ其名先代に踰えた。(河野氏家譜)又謠曲、茶技を好み、俳諧を能くして、(墓誌)【俳號麥雨】麥雨と號し、(河野氏家譜、左海人名錄)【旭莊と交る】廣瀨旭莊來堺の際は訂交頗る厚かつた。(日間瑣事備忘)子嚴吉家を嗣ぎ名を嚴肅と改め、又同業山本謙藏の甥米造を子養し、嚴吉の姉に配して、名を昌逸と改めしめた。後甲斐町の北橫町字永辻に分家した。(河野氏家譜)明治元年九月二十一日享年七十七歳を以て歿し、(墓誌)【墓所】妙光寺に葬り、法諱を梅關良叱と號した。(河野氏家譜)