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(四〇)渡邊重春

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 【豐前中津の人】渡邊重春は豐前中津の人、本姓は國前直、【家系】同國上毛郡四之瀨城主右京進重國九世の遠裔と稱せられてゐる。其家代々古表八幡宮に奉仕して大宮司となり、祖父重名は本居宣長の門下の巨擘であり、父重蔭も亦和歌を善くした。重春天保二年三月出生した。【國典を學ぶ】若冠國典を祖父重名の門弟京都郡津積村の定村直孝に受け既にして嘉永三年四月大阪に赴き、【深く國典を究む】業を萩原廣道、櫻東雄、松浦道輔等に受け、又上京して野々口隆正に就き、更らに伊勢山田に足代弘訓を訪ひ、轉じて御巫清直に從游した。偶々眼疾を得、四年五月歸鄕した。而も病間卷を措かず、【平田篤胤に私淑す】平田篤胤の著書を讀み感奮する所あり、やがて其息鐵胤に請うて先人歿後の門人に列して學統を承くるに至つた。

第八十四圖版 渡邊重春和歌短册

 
 
 弘化四年三月從五位下に敍し、上野介に任ぜられ(國學者傳記集成)【中津藩皇學校師範方】明治二年九月中津藩皇學校の師範方となり、一旦辭職の後、四年十二月更らに皇學校教授に任ぜられ、斯學翕然として興り、近縣之に比肩するものなきに至つた。後又中學校大助教となつたが(舊中津藩學制(日本教育史資料三))【神職】六年官幣大社廣田神社大宮司兼大講義に任ぜられ、七年龍田神社大宮司に轉じ、少教正に進み、正七位に敍任、十三年九月丹生川上神社宮司、十六年十二月大鳥神社宮司に歷任、二十三年五月九日病んで堺の僑居に卒した。享年六十、(國學者傳集成)【墓所】南宗寺墓地に葬つた。【資性】重春資性剛毅、謹嚴、權貴に媚びず、名利を求めず、最も國典に邃く、經史に通じ、詩歌を善くし、其作雄渾流麗、【長歌を能くす】長歌に至つては詞壇獨步の稱があつた。【著書】著書に櫻園長歌集、豐前志、古史傳拾遺、古史傳目錄、神異紀聞、教義誘解、休暇漫筆、名二負、打蟹論、東京日記、和歌浦の日記、龍田考辨、參考宇佐宮緣起、櫻園集、櫻園長歌集、櫻園文集、櫻園祝祠集、櫻園詩集等がある。(國學者傳記集成)