小田清雄通稱は
政太郞、【大町谷勘三郞の二男】堺大町東三丁呉服商谷勘三郞の二男、嘉永元年十二月出生した。(履歷書)長じて神典の講義を聽き、兼て
尾崎正明の藏書を借覽して國學を硏究し、(直木甚之輔氏談)未見の典籍あるときは遠近を論ぜず、之を借覽謄寫して硏究の資料とし、窮乏甚だしく、傭書自ら資し、債鬼の迫るものあれば、或は藏書を典して償に充て、(
小田清雄書翰)【獨學にて國典に通ず】よく國典に通じ、【文法に精通す】殊に語格に造詣深く、該
博篤學の稱あり、(堺市史蹟志料)傍ら易理にも通じた。(
小田清雄書翰)【資性】資性謙讓名聞を求めず、(堺市史蹟志料)白晳痩軀、身を持すること頗る謹嚴であつた。(眞木甚之輔氏談話)【
堺縣學問所出仕】明治元年九月
堺縣學問所に勤務し、同二年七月縣學の改革により、學校掛の事務に當り、三年四【苗字帶刀免許】月鄕村出講の際には苗字帶刀を許され、同年九月改めて學校教示方定詰となつたが、十月縣學の廢止と共に其職を辭した。【神職】五年正月官幣大社枚岡神社に奉職し、二月同社主典、同七月權禰宜、翌六年七月禰宜に進み、權中講義を兼ねた。(履歷書)此歳
報德教會を組織して皇道の鼓吹に努め、斯道に貢獻した。(
報德教會名簿、明治維新神佛分離史料中卷)同八年三月河内八上郡鄕社金岡神社の祠官を兼ね、同年中議院詰となり、説教掛に擧げられ、又中教院の講師ともなつた。(履歷書、議教院日記)同十年二月
明治天皇堺に行幸せられ、附近陵墓へ勅使を差遣せらるゝに方り、清雄は奉幣使神饌掛として仁德天皇御陵に參向した。(議教院日記)同九月中講義に補し、十二月枚岡神社、同十三年五月金岡神社を辭し、尋いで職を堺區役所に奉じ、【
住吉神社主典】十六年十二月辭職と同時に官幣大社
住吉神社主典に任ぜられ、同十八年三月には大阪府皇典講究分所受持委員を兼ねた。既にして二十年三月
住吉神社を辭し、【奈良縣師範學校教員】二十一年九月奈良縣尋常師範學校教員となり、(履歷書)退職後は專ら著述に從事した。明治二十七年一月十七日享年四十七歳を以て歿し、【墓所】南半町西二丁
觀月院に葬つた。【編著】編述の書に、愛國述義、
尊内卑外論、
標註古語拾遺、[文章解剖]
標註土佐日記、[文章解剖]
標註徒然草、
應用日本文典、[雅俗對譯]
國語のしるべ、
和文消息全書、[訂正考證]
名家遺文集覽、[
校正補註]國文全書、[
中等教育]國文讀本等がある。隨筆
若苗十數册、
きしうつ波二册、其他未刊のものも多い。(堺史料類纂)
第八十五圖版 小田清雄書狀