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(四五)高山保次郞

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 高山保次郞諱は慶孝、【泉南中通村の人】和泉泉南郡中通村字中正湊里井孝幹の二男、幼名を寬三郞と稱した。幼より學を好み、家翁の教授を受け、【高山家を嗣ぐ】十五歳堺市九間町東一丁高山氏を嗣ぎ、名を保次郞と改めた。【岩崎良世に學ぶ】父の歿後は岩崎長世に入門して專ら古學を修めた。【鄕學校教員】明治元年鄕學校の設立に際し教職に擧げられ、【乙名役、惣年寄】又乙名役から同三年十月惣年寄となり、(苞居歌集序)【公職】同五年四月第七區八區の戸長となり、次いで區長となつた。(御觸書)是より先、二月官幣大社枚岡神社禰宜に出仕したが、區長の職繁劇にして專心神明に奉仕するを得難いので七月依願免官となり、次いで十五年十二月區長の職を辭した。【歌道を究む】職務の餘暇丹青に親しみ、風韻亦掬すべきものがあつた。(苞居隨筆)【詠進の和歌御撰に預る】長世の歿後は尾崎正明、吉川躬行、渡邊重春等の先輩と交り歌道に專心し明治三十二年の御歌會始に御題田家煙に「家ことに八束たり穗のたれりとはそらにしられてたつけふりかな」の一首を上つて御撰の數に加はり(苞居歌集序)【帝室御調度品の書棚に詠進の和歌を寫さる】三十四年帝室御調度品の一として、田家烟の書棚御調進の際には扉の内面に保次郞詠進の和歌を、御歌所參候大口鯛二をして寫さしめて描金にて仕上げられ、歌人としての面目を施した。(明治三十四年三月八日發行大阪朝日新聞第六千八百五十三號)明治四十年十一月三日壽七十を以て病歿した。【墓所】櫛屋町東三丁遍照寺に葬むる。法名量譽壽覺苞居禪定門と云ふ。【遺稿】其子若林春三遺稿苞居歌集一卷を蒐めて版行した。