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(五一)森 二鳳

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 森二鳳字は士綱、始め滋賀良、後範三郞と稱し、【京都に生る】文政元年京都に生れた。桐園、天半堂、靱堂、遠山堂等と號し、生花には里曙齋春浦、俳諧には其日庵秋琴等の號がある。興正寺門跡の侍士、【森一鳳に師事す】滋賀二葉の子で幼少より文武を習練したが十七歳大阪の森一鳳に繪畫を學び、後子養せられて森氏を冒した。【興正寺繪所預】父歿後興正寺繪所預となり、幾何もなく之を辭して、諸國を遊歷し近畿一巡の後、信濃に入つたが、當時寫生派惆落の際とて、一時の苦境を凌がんが爲め、挿花の教授をした。挿花は遠山流の奧祕を究めてゐたのである。明治維新に際し、大阪に徙り、靱附近に住し、後高麗橋二丁目に移つた。其作品に靱堂とあるは靱時代、鐵橋山人、天半堂などゝあるは、高麗橋時代のものである。【人力車装畫】然も一般美術の衰へた時代として人力車の胴體に浮世繪風の繪を描いて生活の糧に宛て、同八年堺にあつた際にも依然として同事を繰り返してゐた。次いで同九年堺博覽會南宗寺に開會の際には、會場に出で、來觀者の需に應じて席上揮毫を試み、【作品天覽】同十年二月 明治天皇の行幸に際しては二鳳力作を天覽に供した。此頃より寫生派の繪畫も、漸く復興の機運に向ひ、其作品も相當に認められた。然し、家庭的には不幸で、妻女の歿後三女を擁して九間町山の口に浪居して居た。漸く晚年の經歷を飾るに足るのは、同二十三年東京博覽會の際、【英照皇太后の御前に揮毫す】英照皇太后の御前に揮毫を忝うした事である。斯くして二十四年一月十二日享年七十四歳を以て材木町妙國寺西門前の寓居に歿した。【墓所】錦之町東二丁淨因寺に葬り、法號を釋教清と稱した。【門下の鬼才】望月金鳳は其門下である。(泉州日報大正十五年十一月十一日――十二月二十一日)