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(五三)田能村直入

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 田能村直入通稱は傳太、後字を癡、字を顧絶と稱し、小虎と號した。笠翁、青灣飮茶庵主人等の別號がある。【豐後直入郡の人】豐後直入郡の人、本姓は三宮氏、幼より田能村竹田の門に入つて畫を學び、後田能村氏を冒した。諸國を遊歷して、名山大澤を探り、大阪に來つて儒を篠崎小竹の門に學んだ。(日本書畫名家編年史卷五)【堺寓居】後天保十年堺に寓して畫筆を揮ひ、弘化三年堺を去るまで約八年に涉り、【茅海八勝】古家殷阜等の西本願寺門跡來化に際し直入に揮染を乞ふた茅海八勝は、弘化四年三月の作であつた。(茅海八勝圖跋、同獻納狀)既にして明治の初年居を京都に徙し、畫學校を創設し、又自ら畫神堂を建てゝ子弟を教授した。明治四十年一月二十一日、享年九十四歳の高齡を以て歿した。(日本書畫名家編年史卷五)