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(六〇)五代目 竹本春太夫

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 【鍛冶屋町の人】竹本春太夫は鍛冶屋町煙草庖丁鍛冶長原四郞兵衞の子、幼名を彌三郞と稱した。十六、七歳の頃までは家業を助けたが、膂力相樸を好み、且つ天性の美音、淨瑠璃を以て身を立てんとし、潛に稽古を積み、二十一歳大阪に出で、天滿靈府の湯屋へ三助に雇はれて自活の道を計り、【竹本氏太夫の門弟】餘暇に竹本氏太夫に就いて修業すること二年有餘、藝道著しく進境を見るに及び、【さの太夫】藝名をさの太夫と稱し、竹田の芝居に竹取物語の大序を語り、玆に斯界に於ける第一步を占めた。(竹本攝津大掾)【江戸に下る】天保五年氏太夫に伴はれて江戸に下り、滯留五年頗る好評を博し、【竹本文字太夫】此間竹本文字太夫と改名した。同十年稻荷文樂氏太夫の歸阪を促すこと急なるに及び氏太夫先づ歸阪し、文字太夫翌年の夏亦歸阪し、八月興行に岸姫松と飯原屋鋪の中と、四谷怪談賴母住家の段の口を語つた。かくして師に從ひ同座に出勤して居たが、同十三年五月宮芝居の廢止と共に堺に歸り、四代春太夫の養子となり、【新地芝居にて改名披露】【五代春太夫】同十一月堺新地の芝居に五代目春太夫の改名披露をなし、姫小松と合邦辻とを語つた。(淨瑠璃大系圖卷之十、竹本攝津大掾)次で翌年二月文樂で、北堀江市の側の芝居を借受け、其興行に出勤し忠臣藏三の切とおかる身賣の段を語つた。それより道頓堀の若太夫座、竹田の芝居等を打ち、【座頭となり江戸に下る】弘化元年の冬自ら座頭となり三味線の名手三代野澤吉兵衞を同伴した。【酒井侯邸に於ける面目】一日出羽國庄内藩主酒井侯の江戸藩邸に招かれ、侯の面前に於て忠臣藏山科の段を語り、藩侯の激賞するところとなり名聲益々揚つた。(竹本攝津大掾)嘉永四年歸阪、若太夫座に、文樂に、或は京都に興行し、安政七年一旦文樂を退座したが、元治二年再勤後復屢々京都へ上つた。【文樂座の櫓下】明治五年松島文樂座に入つて櫓下となり、同七年中國より九州の各地を巡業し、同九年歸阪し、翌年五月病に罹り、越えて七月二十五日行年七十歳を以て逝去した。法名を圓壽院春功日遊信士といふ。【墓所】墓碑は大阪市東區谷町八丁目正覺寺にある。(淨瑠璃大系圖卷之十一)【後進の誘】斯して此初代以來の名人は、三代野澤吉兵衞と共に後の斯界の權威攝津大掾を大成せしめたのである。(竹本攝津大掾)