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(一九)了覺寺

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 了覺寺光明山と號し、【位置】甲斐町東四丁字寺町にあり、淨土宗金戒光明寺末、寺格能分五等、【沿革】永祿三年二月、善秀洛東新黑谷より圓光大師水影の影像一軀を齎し來り、遍照菴を創めた。此影像は法然黑谷鎧池の邊にて、水鏡を見て自ら彫刻した木像と稱せられ、善秀之を堺の黑谷大師と呼んで市内を勸化した。此の事叡聞に達し、正親町天皇は堺黑谷の宸書を下賜し、且起請を添付せられた。(界府黑谷了覺寺緣起、堺鑑中)是より堺の黑谷と通稱され、道俗の信仰篤かつたが、【當麻念佛院の本尊移座】善秀亦靈感によつて永祿十一年六月大和當麻寺念佛院本尊惠心作と稱する阿彌陀如來を獲本尊とした。當麻寺の僧徒之を聞き奪還せんとし、善秀惜別の情に堪へず、遂に佛前に自殺した。當麻の僧徒等は其篤信に心を動かされ、遂に手を空しうして歸つたといふ。(界府黑谷了覺寺之緣起、堺鑑中)元和年中第二世存譽宗嚴の時寺號を授與せられ、後寺觀漸次衰頽に傾いたが、寬文年中第六世則蓮社是譽運應法燈を嗣ぎ、拮据して堂宇を再興し、光明山號を授與せられた。【堂宇】本堂、庫裏、門あり、境内二百六坪。(社寺明細帳)【什寶】什寶に圓光大師水鏡影像一軀、【眼代の地藏】傳聖德太子作阿彌陀如來像一軀及び俗に眼代の地藏と云はるゝ延命地藏菩薩像一軀がある。