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目次
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第三編 名蹟誌
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第三章 史蹟名勝
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第一節 史蹟(一)
(一六)御仕置場址
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【二箇所】德川時代の
御仕置場
は南北二箇所にあつた。南は東湊町紀州街道の傍ら一里塚のある所、北は北之橋北方街道の西側にあつて、それ〴〵南
御仕置場
、北
御仕置場
と呼び、又南北の刑場とも云つた。(
堺鑑
、各年代改堺手鑑)
第百三十五圖版
大野道犬
供養碑
第百三十五圖版 大野道犬供養碑
【北
御仕置場
】兩
御仕置場
の中、古來人口に膾炙したものは北方で、其境域東西五間(新間五間二
尺
五寸)南北十八間(新間十九間三
尺
)と記し、(元祿二年堺大繪圖)幕末には南北十七間であつた。(文久二年御用覺書)現在其舊址は人家となり、並松町に、屬し、
風間堂
の筋向に當つてゐる。【
大野道犬
供養碑】元和元年玆で刑死した
大野道犬
追善の爲め、法春比丘尼の建設した題目碑は、明治後
御仕置場
の取拂と共に柳之町東二丁
月藏寺
へ移轉した。