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(一六)御仕置場址

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 【二箇所】德川時代の御仕置場は南北二箇所にあつた。南は東湊町紀州街道の傍ら一里塚のある所、北は北之橋北方街道の西側にあつて、それ〴〵南御仕置場、北御仕置場と呼び、又南北の刑場とも云つた。(堺鑑、各年代改堺手鑑)

第百三十五圖版 大野道犬供養碑

 
 
 【北御仕置場】兩御仕置場の中、古來人口に膾炙したものは北方で、其境域東西五間(新間五間二五寸)南北十八間(新間十九間三)と記し、(元祿二年堺大繪圖)幕末には南北十七間であつた。(文久二年御用覺書)現在其舊址は人家となり、並松町に、屬し、風間堂の筋向に當つてゐる。【大野道犬供養碑】元和元年玆で刑死した大野道犬追善の爲め、法春比丘尼の建設した題目碑は、明治後御仕置場の取拂と共に柳之町東二丁月藏寺へ移轉した。