鎌倉時代に入ると、日本海海運によってもたらされる商品が北海道にも流入し、鉄鍋、中世陶磁、漆器や木器が一般的に使われるようになる。かまどのついた竪穴住居跡が使われなくなり、炊事には内耳の鉄鍋やそれを模して作った内耳土鍋が平地式住居の炉で用いられるようになる。
縄文時代以降、連綿と続いてきた〝土器〟が失われることによって、その後の様子はわからないことが多いが、内耳土器は、一三世紀ころから一五世紀まで、内耳鉄鍋は一四~一六世紀まで使用されたと考えられる。
擦文土器の使用が廃止されるに至った大きな原因として、家の炉に対する火の信仰、あるいはその確立に伴う容器の変革が考えられる。そして、一三世紀ころより増大する日本海沿岸ルートによる和産物とともに内耳鉄鍋や珠洲焼をはじめとする中世陶磁、各種の漆塗製品などの流入によって、擦文社会は急激な変容を受け、いわゆるアイヌ文化に移行していくのである。