本遺跡は、月寒川とラウネナイ川とが合流する部分の台地縁上に立地する遺跡で、包蔵地の範囲は広い。五条一三丁目側は、道々西野―白石線より北側の部分で昭和五十六年に宅地造成に伴い調査が実施された。縄文晩期の土壙群(二三個)と同時期の遺物とともにトコロ第六類を中心とした縄文中期後半の遺物、時期不詳の溝状遺構一〇個と焼土三カ所がみつかっている。
三条一一丁目側は、道々の南側の部分で昭和六十二年に学校建設に伴い調査が行われた。その結果、縄文後・晩期から続縄文時代の土壙六五個と縄文中期と晩期頃の竪穴住居跡各一軒、溝状遺構六個とともに後期旧石器時代から縄文、続縄文時代、擦文時代の各時期の遺物が数多くみつかっている。