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環状列石と周堤墓

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 以上が現在までに正式発掘された後期の墓であるが、市内には環状列石、周堤墓などがまったく存在しなかったわけでなく、現在のように都市化される以前の記録には、それらしき存在を思わせる報告を見ることができる。
 発寒神社の北東の小丘上に存在するN一九遺跡は、五〇センチメートル~一メートルの柱状の安山岩を並べたもので、多くは陸軍の演習の際の塹壕によって破壊され半月形に残存していた。同一地域には、アイヌの墓も発見されているが、これより古い時代の構築であると考えられている。残念なことに、出土遺物がないために正確な時代が不明であり、遺跡もその後消滅しているために、その性格を確認することが不可能であるが、伝えられる記述による限りでは、環状列石と呼ぶにふさわしいと考えられる。
 また、大正十一年の河野常吉のノートには、白石村の遺跡について、次のような記述が見られる。
今、役場のある高台に二本あり。凡十間位、互いに離れ居たり。長さ六尺余、径六、七寸の角柱なり。是れより凡一里白石神社の辺にも、同じ石柱壱本を見たり。他にもありしや否や知らず。

 この記述に見られる立石を持つ遺跡は、恵庭市、千歳市などで発見される周堤墓と同様な特徴であり、周堤墓がこの地域に存在した可能性が大きい。この二つの遺跡の付近では、前者に近いS三五四遺跡と、後者に近い白石神社遺跡の発掘調査が実施されている。しかし、発掘調査では、両遺跡ともに周堤墓が構築される後期後葉の遺物が出土していないために、発掘地点とはやや離れた地点のことを示していると考えられる。