初頭の土器を出土する遺跡としては、N二九五遺跡、N一五六遺跡がある。頸部がわずかにくびれ、胴部がやや張り出し、口唇部に突起あるいは波形をもつ器形に、貼付帯と弧状の沈線で文様をつける土器で、初頭の代表的な特徴を有している(図16-1~3)。
図-16 縄文後期の土器
(1~3:N295遺跡,4:T361遺跡,5・6:T310遺跡,7~13:手稲遺跡)
N二九三遺跡(西区前田九条一〇丁目)から少量出土した曲線の沈線文の発達した土器は、涌元式土器と呼ばれるもので、次の段階に位置するものであろう。
この次に出現する土器は、沈線によるやや粗雑で複雑な文様の発達した土器で、白石神社遺跡から、破片が数点出土している(図17-1~12)。
図-17 縄文後期の土器(1~18:白石神社遺跡,19~43:T361遺跡)
T三六一遺跡、白石神社遺跡で発見された土器は、曲線の沈線文がより複雑となり鋸歯状、弧状、渦巻状などになり文様としての形が整ってくるが、磨消縄文の手法は、まだそれ程発達していない。土器の形も朝顔形に近い深鉢形が見られるようになる。千歳市ウサクマイC遺跡出土土器を標準とし、ウサクマイC式土器と呼ばれる(図15、図16-3、4、図17-13~18)。
手稲遺跡の発掘で出土した土器は、中葉の土器を研究するうえで大変重要な資料となっている。
土器の形の多形化が進み、磨消縄文の手法が一段と発達し、雲形文、入組文など精緻な文様が発達し、横の沈線を縦の沈線で連結する文様も盛んに用いられる。手稲遺跡出土の土器群は、当初同一時期に製作された土器と考えられ、一括して手稲式土器と呼ばれていた。しかし、その後、中葉全般の長期間にわたって遺跡が営まれていたと考えられ、エリモB式土器などに分けられるようになった。市内でも発見例が増加し、T三六一遺跡、T四六八遺跡、N二九五遺跡、坊主山遺跡(図16-6~14)、白石神社遺跡などで多数見ることができる。ただ、この後に続くと見られる𩸽澗式土器(ほっけましきどき)を出土する良好な遺跡は、まだ発見されていない。
後葉の土器は、古い方から堂林式、三ツ谷式、御殿山式土器と変化するが、市内ではまとまった土器を出土する遺跡の発掘が行われていない。T三六一遺跡から少量出土した爪形文、内側からの突瘤文、三叉文を持つ土器は、御殿山式土器の特徴を持つものである(図17-19~43)。