このような混乱期にあって、磨消縄文を主とする関東地方の加曽利B様式土器が、本州をはじめ北海道全域にまで広がる背景としては、次のように考えられている。
中部山岳地方および千葉県を除く関東地方では、後期に遺跡数が減少するが、千葉県では、後期の初頭に遺跡の増加のピークに達し、後葉に激減する。これは、気候の冷涼化にともなう冷温多湿な降雨現象により、東京湾の下総台地の溺れ谷が埋められ、ハマグリ、アサリ、シオフキなどの棲息条件に適合し、この食料を背景とし、この地で生活する人やこの貝類を干貝などにし、内陸部に移出する人々による大馬蹄形貝塚が形成された。しかし、その後この地も次第に条件が悪くなり、生活に適さない地となったため、加曽利B様式を持った海洋性の活発な人々が全国に拡散した結果、日本列島の大部分が同一土器様式に統一されることとなった。
初頭の土器を持った人々の勢力が衰えた後に、札幌に到着した加曽利B様式土器(北海道の手稲式土器)を持った人は、手稲、発寒、白石などに全道的に遜色のない大遺跡を形成したが、札幌の地はこの三地域以外に、狩猟・漁撈・採集の経済を支える良好な地域が存在しないため、後葉には良好な生活環境を求めて他に移動し、再び遺跡が減少したのであろう。