全道的にも晩期の集落の発見例が少なく、その実態がよくわかっていない。
渡島半島の亀ヶ岡系の中葉の土器を伴う遺跡では、直径四~五メートルの円形の竪穴住居跡が発見されている。
後葉には、渡島半島での発見例が減少し、それ以外の北海道的な土器を出土する地域でわずかに発見例が増加する。千歳市内の遺跡で発見されている三四軒の竪穴住居跡は最大で約六・三メートル、最小で約三メートルで、面積の最も広い住居で二七平方メートル、最も狭いもので約六平方メートルである。一〇平方メートル前後の広さの住居が最も多く、小形の住居が多い後期と同様な傾向を示している。平面形は、楕円形が多いが、中期に見られるような定形的な楕円形ではなく、不整形と呼ぶ方が適切かもしれない。出土遺物の総量は、後期より増加している。住居の床面に柱穴、その他のピットが数多く構築されるが、炉を屋内に設けないのが特徴である。炉に限って見れば、千歳市内の他の遺跡では、住居内に炉を持っていることが多いので、両者が併存していたのであろう。
石狩低地帯では、竪穴を掘らずに直接上屋を構築する平地式と呼ぶ住居跡の報告も見られる。渡島半島の後葉の遺跡で、遺物が多量に発見されながら、遺構が検出されない遺跡などは、平地式住居による集落が営まれた例かもしれない。
純粋な北海道的な土器が使用されている道東部の後葉では、方形の主体部に、出入口と思われる細長い張り出しを持つ特異な形態の住居が出現し、続縄文時代には渡島半島にまで分布を広げる。
晩期の集落は、良好な例が少ないために、くわしくは不明であるが、数少ない発見例によれば、狭い土地に小形で不定形の住居を幾度となく重複させて構築している。住居の形態に統一性が薄れることと、墓に環状列石や周堤墓のような集団区画墓が消失する事実とを考えあわせると、集団内の諸々の規制がより緩やかになり、個々の意志が強く働くようになったと見ることも可能であろうか。