市内で発見される後葉の遺跡は、そのほとんどが墳墓遺跡である。
S一五三遺跡では、早期から続縄文時代にかけての墓壙が約八〇〇個も発見されている。限定された地域に各時期の墓壙が密集しており、しかも、墓壙の副葬品がきわめて少ないため、晩期の墓壙のみを確実に抽出することが困難である。構築時期を確定、または推定できる晩期後葉の墓壙は、約九〇個である。大きさは一メートル内外で円形を呈し、壙底または壙口部に人頭大の石を数個置くものが見られる。土器・石器などの副葬品が埋葬される例は、きわめて少なく、完形土器を出土したものは一個しか見られず、大型の土器片を出土したものも二一個にすぎない。
T二一〇遺跡は、一五一個の土壙が発見され、そのうち一二七個が墓壙であると考えられる(図21-3)。そのうち一一六個が晩期終末から続縄文初頭に位置づけられる。七〇~一〇〇センチメートルの大きさで円形、楕円形を呈し、深さは二〇~三〇センチメートルのものが最も多い。副葬品と思われる土器や石器は、五六個の墓壙から発見されている。しかし、完形土器が副葬される例は、一個も見られない。これらの墓壙のなかで六七号墓から出土した土器片(図21-3の1)は、その作り、粘土、焼き方などから、青森県あたりで作られた晩期最終末の土器が製品として持ち込まれたと思われ、当時の人々の動きと、この遺跡出土の土器群を考えるうえで、重要な資料となっている。墓壙が構築されている地域からは、人頭大の石による石組が数多く見られるとともに、焼土が各所に存在する。また、墓壙はいくつかのグループに分けられ、各グループは同一血族により構築されたと考えられる。
図-21 縄文晩期の墓(1:T466遺跡,2:S354遺跡,3:T210遺跡)
S一五一遺跡からは、二三個の墓壙が発見された。平面形は、すべてほぼ円形、楕円形で、大きさは最も小さい例で長径約六〇センチメートル、最も大きいもので約一四七センチメートルあり、八〇~一一〇センチメートルの間の大きさが最も多い。内部からは、人頭大の石が多数発見される例も見られる。墓壙の内部から土器片、石器が発見されるものは八個しか存在しない。一一号墓からは、底部を欠く大形の浅鉢形土器が出土している。二三個の墓壙は、約三〇メートルはなれ西側に八個、東側に一五個存在する。
T四六六遺跡では、墓壙六九個、石組三四カ所と石組とならない人頭大の礫多数が発見された。墓壙の形態は、円形、楕円形がほとんどで、大きさは、小さなもので長径約四〇センチメートル、大きなものは長径約一四〇センチメートルあり、平均的には七〇~一一〇センチメートルのものが最も多い(図21-1)。墓壙から人頭大の礫が発見される例があるが、密集して存在する例が少ない。土器・石器などの出土例は、小さな土器破片の発見をも含めても三七個しかない。墓壙は、斜面のやや上方から北側に位置する一群と、斜面の下方の南側に存在する一群とに分けることができる。
S三五四遺跡では、一四個の墓壙と焼土が発見されている。墓壙の構築時期は、晩期から続縄文時代にわたっている。晩期と確定するに充分な出土遺物の発見された墓壙は、第三、五、一三号の三個である。続縄文時代の墓壙が、深く掘り方もしっかりしているのに対し、晩期のものは浅く底面、壁もそれ程しっかりしていない。そのなかで第一三号はやや特異な形態を示し、平面形が隅丸方形を呈しており、掘り方も明瞭である。大きさは長軸が一二〇センチメートル、短軸が八七センチメートルである。続縄文時代の墓壙を含めて比べて見ても、やや異質である。この墓壙の長軸の一端の壙底面には、完形の腕形の土器が副葬されていた(図21-2)。他の墓壙及び発掘区から出土する土器片が、北海道の在地的色彩が強いのに対し、この土器は、亀ヶ岡系の土器を模倣して製作されたと見ることができる。墓壙の形が異なり亀ヶ岡系の土器が副葬されている点などから、この墓壙に埋葬された人は、他の墓壙に埋葬された人と異なり、渡島半島あるいは、東北から渡来した人ではないかとも推測することができる。