以上、市内の主要な墳墓遺跡について概括したが、その特徴はS三五四遺跡第一三号墓を除き、すべて円形または楕円形で、特徴的な副葬品の発見がほとんど見られず、墓域から人頭大の礫が単独または石組の状態で発見される遺跡が多く、さらにすべての墓域から焼土が検出されることである。
墓壙から人頭大の礫が発見される例は、縄文時代の各時期にわたって普遍的に見られ、埋葬された遺体が獣などに荒らされないようにするため、死者の魂が抜け出し、現世に留まることを防ぐため、墓標などいくつかの説があるが、明確になっていない。市内の遺跡の例を見ても、墓壙上面に密集して石を置くものと、一、二個しか置かないものなどが見られ、いずれの説が正しいか明らかにすることができない。
墓域から発見される礫あるいは石組は、焼土とともに、死者を送る儀式に関係があると思われ、T四六六遺跡で発見された竪穴住居跡とともに、当時の葬送儀礼を知るうえで重要である。
市内では、まだ発見例がない晩期前葉と中葉の墓について、簡単に触れておきたい。
後期終末から晩期の初頭の墓として、千歳市内の遺跡から発見された特異な形態のものがある。長径五・二メートル、短径三・四メートル、中央部の高さ約三〇センチメートルの楕円形の盛土を持ち、その中に屈葬と思われる数体の遺体が埋葬されている。遺体を埋葬する墓壙を構築せず、マウンドを構築する途中で、浅いくぼみのなかに遺体を埋葬している。副葬品として数多くの土玉、勾玉、垂玉や土器・石器が発見されている。このような墓は、他に発見の類例がなく、後期に盛行した集団区画墓の形態が変化する途次に発生したとの見方もあるが、遺体の上部にマウンドを構築していることから、病気、あるいは不慮の事故で一度に死亡した人を埋葬した特殊な墓とも考えられる。
中葉の渡島半島の亀ヶ岡系土器の中心部では、平面形が方形の墓壙が多く、土器・石器とともに他の副葬品も多くなる。完形土器一〇点、石鏃五〇本以上、ヒスイ玉数点を副葬する例などが見られる。また、特殊な例としては、石刀が副葬されている墓壙もある。しかし、墓壙のすべてから副葬品が大量に発見されるわけではなく、副葬品がまったく見られない墓壙も数多く存在する。また副葬品も墓壙底に遺体とともに埋葬するとともに、墓壙上部からも発見される例がある。亀ヶ岡系土器の影響の強い石狩低地帯では、石狩町の遺跡に見るように円形、楕円形、方形に近い形の墓壙が混然とし、土器・石器に加えて勾玉、平玉、管玉などの副葬が見られる。墓壙のなかには、石鏃七〇本、平玉五二個など、特に量的に目立つものがある。
後葉では、札幌市内の発掘例で見たように北海道的な在地の土器、またはその要素の強い土器を持つ地域では円形、楕円形の土壙墓が主体であり、土器・石器の他に玉類の副葬が多く、終末期から続縄文初頭では石鏃一〇〇以上や、コハク玉二〇〇〇個近くも副葬する墓壙も出現する。千歳市の遺跡では、土製の仮面も出土しており、土製仮面をつけた墓標が立てられていたのではないかとさえ考えられている。
埋葬遺体は、前葉では屈葬であるが、中葉以降では、屈葬、伸展葬どちらとも取れる大きさのものが同一遺跡に混在しており、なかには座葬及び八体の合葬と思われる墓壙も存在する。
その他墓の底の多くには、後期から引き続きベンガラが真っ赤に見られる。ベンガラの赤は、血液の赤にも通じるもので、生命に対する尊厳を現すために死者に塗布したと考えられる。
晩期の墓は、集団区画墓の風習が姿を消して、一般的な土壙墓へと変化したことがうかがわれる。しかし、後期から始まる副葬品を多数副葬する傾向はより一層強くなっている。特に目につくことは、一つの墓壙に石鏃、玉類を数百点以上も副葬する例が出現することである。これは、後期から晩期初頭に見られる石棒、晩期の石刀などの副葬とともに特別な意味を持つと思われる。後期には、集団を統率する指導者の立場の強化に伴い、区画墓と特殊な副葬品の出現をうながしたと理解したが、晩期にも同様な理解が成立するであろう。さらに晩期に全般的に副葬品を持つ墓壙が増加する背景には、集団内個々の個人所有の観念が強まり、死者が生前使用していた装飾品、道具などを副葬する風習が一般化しつつある時期ともいえる。そのため副葬品には、死者が生前におこなっていた集団内での労働の差―たとえば狩猟をおこなう男性の副葬品には石鏃などの狩猟具といった―を表わしていると考えられる。さらに、晩期には、後期に引き続き甕棺の風習も行われ、道内で数遺跡の発見がある。