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晩期の土器

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 北海道の晩期の土器は、渡島半島を中心に分布する亀ヶ岡系の土器と、道東・道北に分布する北海道独自の文様を持つ土器、さらにこの両者の影響のもとに出現し、石狩低地帯に見られる土器の三者に分けることができる。
 このような土器の分布は、当時の植物相とも大きなかかわりがあると思われる。晩期には、ほぼ現在の自然植性に近い状態となり、渡島半島の黒松内低地帯から南は、冷温帯落葉広葉樹林帯に位置し、それ以外の大部分は亜寒帯針葉樹林帯に属する。札幌市を取り込む石狩低地帯は、この両者に近い環境にあたり、南北の文化が入り込み接触することが多い。
 晩期の土器の文様は、亀ヶ岡系の土器では、磨消縄文の手法が一層発達し、種々複雑な文様となり、形も煮沸用、食器用、儀式用等と一段と分化される。亀ヶ岡式土器は、形・文様ともに実用品というより美術品的価値にまで高められている。これに対し北海道独自の土器は、亀ヶ岡系土器の精緻さに比べて見劣りがするが、文様・形ともにかなり変化に富んでいる。撚糸・縄を使用した種々の文様がつけられ、舟形、箱形、釣り用のビクを思わせる形、柄のついた柄杓形など数々の形態が存在する。このように変化に富む器形を見ると、これらの土器を使用した人々は、本来的には木製容器や編んだカゴなどの容器を主として使用する生活を送っており、そこに土器を持つ縄文文化が北進したため、これらを模倣して土器を製作することをはじめたのではないかとさえ考えられる。
 晩期の土器の変遷は、渡島半島、石狩低地帯、道東、道北地方ごとに中心となる土器が異なっており、そのすべてを説明することが困難である。また市内では、中葉までの土器がまったく発見されていないため札幌のみを中心として説明することも困難である。
 前葉の最も古い段階は、後期終末の土器の文様を受け継いでおり、北海道的な内側からの突瘤文と爪形文を持つ土器と、三叉状文、曲線の沈線文などを持つ土器が共存して、東北地方の亀ヶ岡系の大洞B式土器に併行すると見られている。
 次の段階では、内側からの突瘤文を持つ土器が姿を消し、爪形文の土器と亀ヶ岡系の大洞B-C式土器に見られる文様を持つ土器となる。しかし、この種の土器は、渡島半島に分布の主体があり、札幌付近では散発的にしか発見することができない。
 中葉の土器は、従来までの縄文土器の器形にはまったく見られなかった舟形の土器が突如として出現する。文様は磨消縄文の他に、横走沈線文と刺突文の土器が多くなる。この土器は渡島半島の亀ヶ岡系の大洞C2式土器と併行と考えられ、これよりも一段階古い土器が存在しなければ、前段階との間隙が埋められないが、現在のところ札幌付近ではまったく発見されていない。
 前葉、中葉に相当する土器は、現在道東・道北では散発的にしか発見されていない。
 後葉の段階になると、突如として市内各所から多くの遺跡が発見されるようになる。この時期には、渡島半島では日ノ浜式土器といわれる亀ヶ岡系の土器があり、道東にはヌサマイ式・緑ヶ岡式と呼ばれる北海道独特の土器が主体となる。
 市内の後葉の土器は、深鉢形、浅鉢形が圧倒的多数を占め、舟形などの特異な器形が加わる。文様は、平行・波状・山形の沈線文が太い工具で粗雑に描かれることが多く、次いで撚紐の原体を指紋状、あるいは直線的に押圧する。浅鉢形土器では、大型の把手がつけられる。これらの特徴は、明らかに道東を中心とするヌサマイ式土器の系統を強く受け継ぐものである。これらの土器に少数の亀ヶ岡系土器の影響のもとに作られた土器、あるいは亀ヶ岡系の土器そのものなどが共存している。