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◇K一三五遺跡(北区北七条西四、五丁目=札幌駅北口)

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 国鉄(現JR)高架工事に伴い昭和五十九、六十年の二カ年にわたり発掘調査した。この遺跡の存在は古くから知られていた。明治二十九年発行の『札幌沿革史』には、駅構内に機関車の整備のためのピットを三本掘った際に地表面及び地下三尺のところから黒曜石、土器が発見されたと記載されている。
 発掘調査は、この記録をもとに実施され、記録通りに遺跡が残されていたことが証明された。遺跡は、旧琴似川に関連した支流に沿っており標高は一六~一七メートルである。
 四丁目地区は発掘した結果、遺跡は度重なる洪水のため土砂がかぶり基本的に三層の文化層が残され、遺構は土壙墓状のピットが一五個、焼土(焚火跡)二二六カ所、柱穴状小ピット一五四六個が検出された。
 土器は、「後北C2・D式土器」が多量に得られ、さらに本州北半の弥生式土器「天王山式土器、赤穴式土器」、初期のオホーツク式土器である「鈴谷式土器」が極微量だが伴出した。
 二二六カ所検出した焼土(焚火跡)には、焼けたサケ・鹿の骨、炭化した大麦・麻・アワといった当時の栽培植物の種子、栗の実、ドングリ、クルミ等が多量に発見された。
 五丁目地区も、やはり度重なる洪水のせいで文化層は三層検出されている。最下層の文化層は、四丁目地区よりかなり古く、石狩低地帯では最古の「恵山式土器」と、地方色の強い縄文のみ施文された「大狩部式土器」等と称される土器が共に発見されている。やはり竪穴住居跡、土壙墓といった遺構は検出されず、四丁目地区と同様に焼土(焚火跡)が八カ所あり、焼土からは焼けたサケの骨、鹿の骨等が発見されている。
 上層の文化層は、四丁目地区の上層文化層に対応し「後北C2・D式土器」が、焼土、柱穴、土壙墓状ピットと共に発見されている。