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土壙墓

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 恵山期の土壙墓は、S一五三遺跡で二個、N二九五遺跡で三個発見されている。いずれも径一メートル内外の円形プランを呈し、深さも三〇~五〇センチメートルと深い。壙底面には、二、三個の完形土器が置かれ、石器が周囲に整然と並べられている。N二九五遺跡第一三号ピットは壙口に石斧が六本、石斧の未製品または敲石が三個、石鏃数点が置かれていた。

図-2 続縄文時代の土壙墓
(1:恵山期,N295遺跡 2:後北式,S354遺跡 3:北大式,S153遺跡)

 後北式土器の初期(プレA・A・B・C1式)の土壙墓は、S一五三遺跡二個、S三五四遺跡で三個、N二九五遺跡で二個調査されている。やはり径は一メートル前後で円形プランを呈している。壙底面に一~数個の完形土器が置かれ、石器が整然と並べられており恵山期の土壙墓と変わりない。
 後北C2・D式土器の土壙墓は、豊富な副葬品があるものと、大きな石のみを数個壙底に置くもの、まったく遺物が検出されないものの三種がある。径は一メートル前後、円形プランを呈している。数百個に及ぶ群集墓を構成する例が特徴となる。S一五三遺跡、T三六一遺跡、N一九九遺跡で二〇個~八〇〇個に及ぶ群集墓が発見されている。
 北大式土器の土壙墓は、S一五三遺跡で二個、N一六二遺跡で一個、K三九遺跡(北海道大学構内ポプラ並木東地区)で七個発掘されている。後北C2・D式土器の土壙墓とほとんど変わりなく、副葬品のあり方も同様である、石器はほとんど見られなくなり円形削器と称される特有の石器のみとなる。
 恵山式土器、後北式土器の墓跡のありかたは、縄文時代晩期の墓跡のありようと基本的には変化がない。住居に隣接し、あるいは墓域を特に設定して住居群から離れた場所に作られる。墓壙の平面プランは、恵山式土器の初期は円形、後半期は楕円形、後北式土器では円形・楕円形を呈する。
 縄文時代晩期の墓壙は、完形土器が壙底面に副葬されることはまれで、副葬用に特別に作られた土器が、壙口に置かれる。石器類では、石鏃、ナイフ類、石斧、玉等の装身具などがある。恵山式土器の墓壙は、一般に厚葬で壙底面に完形土器、石器類を多数副葬する。
 副葬品の様相は、縄文晩期では生産活動に直接用いられた道具の他に、玉等の装身具、石刀といった儀礼的な遺物が比較的多くみられる。恵山期では生産活動に直接用いられる道具類が主体を占め、わずかに管玉、平玉等の装身具が加わる。後北式土器の初期は、恵山文化のそれと同様の傾向を示す。後北C1式土器もほぼ同様だが、副葬された石器群の組成が変化する。後北C2・D式土器ではS一五三遺跡、T三六一遺跡で検出されたような大規模な群集墓が見られるようになる。北大式土器の土壙墓は、数個~一〇個ほどまとまって発見されることが多く、後北式土器末期に見られるような群集墓は構成しないようである。