擦文時代の墓跡については、竪穴住居跡が数多く発見され、人口の総量はかなり多かったと考えられるにもかかわらず、今のところ擦文早・前期と後・晩期頃のものが若干例みつかっているだけで非常に少ない。この理由としては、当時の人たちが居住地とはまったく別の場所に埋葬されていたか、あるいは考古学的な方法で現在確認することが難しい葬法で葬られていたなどの可能性が考えられる。
擦文時代早・前期の例としては、墳丘状のマウンドがある「北海道式古墳」、続縄文時代と同様な円形・楕円形と擦文時代になって新たに出現する隅丸長方形・長楕円形などの土壙墓がある。分布域は、いまのところ北海道式古墳は道央部の江別および恵庭市内のごく限られた地域、土壙墓は道央部と十勝地方に限定され、その中の半数近くは続縄文時代以来の伝統的な墓域の中に埋葬されている。この時期の市内の例としては、西区N一六二遺跡第一、九号ピットがある。なお、隅丸長方形あるいは長楕円形の土壙墓は、近世アイヌの一般的葬法である伸展葬との系統的なつながりを推定することもできる。