「北海道式古墳」については、東北北部の末期古墳に類似しているところから、昭和初期に盛んに調査されたが、その後新しい資料が検出されずその内容については明確ではなかった。しかし、昭和五十五年に江別市後藤遺跡において、後藤寿一調査例の再確認をふくめた発掘調査を実施し、不明確であった部分の一部が明らかになっている。それによれば、古墳群は都合二一カ所確認され、それらは台地上の崖の近くの約一〇〇×六〇メートルの限定された範囲に密集し、墳丘の形状は円形もしくは楕円形で、長軸は東から南東の方向である。墳丘の周りには、断面台形ないしU字形を基本とする周溝が巡る。周溝の形状は、円形・長円形・隅丸長形・馬蹄形などがあり、溝の断面の大きさは、大型のもので幅二メートル、深さ一(~二)メートル、中型のもので幅一メートル、深さ五〇センチ前後である。規模は、直径八~一〇メートルの大型のもの、五~七メートルの中型のもの、五メートル以下の小型のものの三グループに分けられるが、墳丘部の大きさでいえば四~六メートルの中型のものが多い。墳丘の高さは、今回の調査では削平され確認されていないが、五号墳の周溝の土量計算から、周溝の土をすべて利用した場合、高さは一メートル以上と推定されるという。墓壙は、後藤寿一の調査によれば墳丘中央に直接あけられたもので、形状は長方形で、長さ一・五~二・五メートル、幅五〇~八〇センチのものである。出土遺物としては、今回はすべて周溝中からであるが、土師器、須恵器の土器、鏃・鋤・刀子などの鉄器、紡錘車がみつかっている。また、確認調査では、遺構外より、前述のもの以外に勾玉(まがたま)、刀身片が出土した。なお、後藤らによる江別、恵庭市での調査によれば、土師器とともに須恵器、蕨手刀・直刀・刀子・袋柄鉄斧・鉄鎌・銙帯金具(かたいかなぐ)・環・鑷子(ちょうし)・針などの金属製品、勾玉などがみつかっている。
北海道式古墳の出土遺物から推定される築造年代については、伊藤玄三は被葬者との関連で、東北地方の末期古墳から出土している青銅製の銙帯金具は、令制に定める六位以下の位階の銙帯と一致することから、八世紀初葉から中葉までの間の律令政府とかかわりをもった人々のものであり、恵庭市茂漁二号墳出土の例も一般的なものとは若干異なるが、東北地方の例と同様な性格をもったものであるとしている。