結局、アイヌ文化は擦文文化とオホーツク文化が接触・融合するなかで、両文化の各種要素を取り入れる形で成立したもので、しかも旧琴似川の擦文時代の遺跡に類似した立地・生業がみられた続縄文時代後期の札幌市K一三五遺跡の生活跡をみるかぎりでは、少なくとも道央部ではこの時期までアイヌ文化の直接的なルーツをたどることができるようである。
なお、擦文文化期の鉄器の存在意義を過大に評価し、続縄文文化人は、鉄志向により周辺の「先進」文化の影響をうけ、完璧なまでにその環境に適応した生活を崩して「商品」経済に組み込まれ、新しい擦文文化を迎えたとする見解や、擦文文化には鉄製品が豊富であり、武力的にも生産面でも優位であったという意見もあるが、この問題に関しては前述したように鉄器は両時代とも供給量は少なく、結果的に「道具をつくるための道具」にとどまっており、むしろ道具の改良・変化に影響を及ぼした面のほうが大きいかと思われる。結局、西本豊弘も述べているとおり、続縄文時代後期以降の生業にみられるいくつかの変化をもたらした契機としては、農耕ないしは農産物の積極的利用ということの方が大きかったのではないかと考えられる。そして、実際に本州の商品経済の影響が強く現れてくるのは、和人との交渉が活発になる擦文文化以後の「中世・近世」になってからである。