大正時代に入ると、大正七年に河野常吉が中心となって「北海道人類学会」を発足させる。そして同年には、開拓その他により多くの遺跡が破壊されていることを憂い、第一八道議会に「遺跡・遺物の調査並びに保存に関する件」を建議し可決されている。このような公的機関においての遺跡保存の建議は、おそらく全国において最も早いものであろう。
さて、全国を風靡した日本人種論争も大正期に入ると坪井正五郎の逝去によってコロポックル説は息をひそめ、アイヌ説が一応定着したかのように見える。この時期には河野常吉も、アイヌの土俗や古記録等から、アイヌが最近まで石器を使用していた実例をあげ、アイヌ説を強く主張した(非コロポックル論)。しかし学界の趨勢は、発掘された石器時代人骨や土器の研究をもとにした原日本人説が清野謙次や浜田耕作により、当時の国家意識の高まりを背景として強力に主張されるようになる。