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発寒神社遺跡の発掘

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 この調査は周辺にさまざまな影響をおよぼした。その一つは、昭和七年十一月、当時の琴似村の発寒神社裏のストーンサークル状配石遺構とアイヌ墳墓の調査である。河野広道によると、ストーンサークル状遺構は、小丘陵上に安山岩の柱状のものが約一〇本ほど半月形に並んで土に埋もれていた。そのうち数本がわずかに地上に頭を出している。石は長さ〇・五~一メートルくらいだが、大きなものでは二メートルのものもある。これらの石は、もとは環状にたてられたストーンサークルの一部をなすものらしいが、今では、環の東半分をなす部分の石のみが倒れて埋もれて残っている。
 ストーンサークル状の欠損部は、新しい時代のアイヌのものと思われる墳墓が二個つくられ、それによって後世に破壊されたものと考えている。ストーンサークルの石は付近にないものであり、また、その配列から推察して、小形のストーンサークルの一部と推察している。その上で、狩太、積丹半島、余市、蘭島方面のそれと石狩川沿岸音江のストーンサークルとを連結する重要な遺跡となることを指摘している。
 アイヌの墳墓は二個あり、第一号墳墓は長辺二・五メートル、短辺一・三五メートル、長軸が東南より北西を指し矩形を呈する。壙底は平らで深さ五〇センチメートル、遺体は三体埋葬してあり伸展葬が二体、南隅の墓壙のひろがった部分の浅所の一体が屈葬である。副葬品は太刀六、マキリ二、刀子一、骨製矢柄一束、銀製耳飾一、孔開銭二枚、硝子玉多数そのほかがあった。出土銭の種類は開元通宝、天禧通宝、皇宋通宝、治平元宝、元宝通宝、元祐通宝、洪武通宝が各一、聖元通宝、永楽通宝各二の九種類である。
 第二号墳墓は、長辺一・四メートル、短辺〇・八メートルの矩形で長軸は第一号墳と並行している。埋葬体は骨が残存しないので不明であるが、頭は東南に、脚は北西にむけて伸葬したものらしい。副葬品は太刀二振、漆塗木椀二個、開孔銭二個(熙寧元宝一、大観通宝一)、硝子玉若干ほかが出土した。
 これらの墳墓は、副葬品から鎌倉時代以後のものであり、寛永通宝が一枚もないところから鎌倉時代後期~徳川時代の初期のものと推定している。一号墳には伸展葬のほかに屈葬が一体あったが、この部分は墓壙が少しひろがっており、屈葬体がごく浅いところにあることから、おそらく二体の伸展体が埋められた後に屈葬体が埋められたものであろうと推定している。