九世紀以後王朝府の記録には陸奥、出羽や、渡島の蝦夷の動きが見えてこない。これはこの頃より王朝府の対蝦夷政策は陸奥・出羽諸郡の施政、治安共に在地の郡司らの手に委ねられるようになったことによるものである。「東夷の酋長」とする安倍氏が陸奥の六郡(岩手、斯波、稗貫、和賀、伊沢、江刺)の司となったのはいつ頃かわからないが、六郡の中の最北部の岩手郡が一〇世紀なかば頃には建郡されていることから、安倍氏の郡司起用はその頃かとされている。出羽国で安倍氏の立場にあったのが「出羽の山北(山本、平鹿、雄勝の三郡)の俘囚主」清原氏で、清原氏の出現もその頃とされる。奥六郡や山北三郡より奥地が蝦夷村(のちの岩手県東北部の閉伊、久慈、糠部(ぬかのぶ)、青森県の津軽平賀、津軽山辺、津軽鼻和、津軽田舎の諸郡と外浜、西浜、秋田県北部の鹿角、比内の二郡、これらは一二世紀になって建郡されたとする)で、そこに住する人が蝦夷身分に固定され、渡島蝦夷も当然この体制の中にあり、出羽国北部の支配が「山北の俘囚主」清原氏を介して行われたものと思われるので、渡島蝦夷の交易なども清原氏を通してなされ、前九年の役(永承六年より康平五年まで)で安倍氏が滅んだあとはなおさらであると考えられる。