安藤と安東は訓が同じだから混じったのか、鎌倉末期から南北朝争乱期、同族相争う中で蝦夷管領代官職がその初め安藤氏で、後に安東氏に代わったのか、その間の事情はわからないが、文書記録類では鎌倉期のものは安藤と記し、室町戦国期以降は安東と記すのが多く、渡島した一族は安東になっている。
北条得宗領の地頭代であり、蝦夷管領であった安藤氏の勢力は、鎌倉末期に十三湊(とさみなと)を拠点に南は秋田、北は津軽、下北半島、夷カ島に及んでいたのであるが、糠部(ぬかのぶ)南部を拠点に勢力を伸ばして来た南部氏が応永十八年(一四一一)秋田に兵を向けて湊の安東鹿季を攻め、ついで十三湊の下国安東氏を攻撃するに至った。
『新羅之記録』によると十三湊の家中に南部義政に内通するものがあり、内紛の中に、嘉吉二年(一四四二)、下国安東盛季が義政に攻められ、小泊の柴館に逃れ、さらに翌三年十二月十日海を渡って夷カ島に逃るとある。『福山秘府 年歴部』は「南部系譜略記」によれば南部義政は嘉吉元年七月十二日に卒しており、義政は嘉吉二年には世に居ないので、『新羅之記録』も『松前年代記』も妄説であると記している。だが足利の幕政の枢機に参画したといわれる醍醐寺座主満済の『満済准后日記』の永享四年(一四三二)十月二十一日の条に、下国安東氏が南部と戦って破れ、「エソカ島」へ逃れ、幕府に和睦の調停を依頼してきたので、幕府は一度仲に入り調停したが、南部は承知しなかった。それで畠山、山名、赤松の諸大名に意見を聞いたところ、三人共に重ねて諭すべきだとしている話がのせられている。これによって考えれば永享四年か、それより遠く遡らない時期に、下国安東氏が夷カ島へ渡ったものと考えられる。