東寗元稹の記述から、たまたま最上徳内の行動の一端が知られるわけであるが、公式記録にはあらわれてこない一行のものの行動に注目する必要がある。この時の最上徳内のイシカリ探検について詳細を知ることはできないが、のちに松浦武四郎が記しているところによれば、トウベツのみならずサッポロのハッサム辺にまで足を踏み入れていたらしい。それは、松浦武四郎が安政五年(一八五八)六月十八日、ハッサム川を遡り、その枝川をたどって「シイシヤモウシベ」にいたった時、「シイシヤモウシベ」とは、「和人が有り」という意味であるから、「文化度最上某此処まで上りしか故」に名づけられた(西蝦夷日誌)、と記していることによってうかがわれる。
さらに松浦武四郎によれば、徳内の探検はユウバリにまでおよんでいたらしい。『丁巳夕張日誌』に、「爰を過てクツタラ[右川]、此辺地味高く、雪融の節も水上らざる故に畑跡多し。是迄を上ユフバリと云ふ。是より上を下ユフバリといふ。土人に問に、最上某此所に来られし時案内の者夷言を解し得ざりし故に、上下違ひたりと言伝ふ」とあるのがそれである。最上徳内と松浦武四郎の探検は、その間約五〇年の隔たりがあるにもかかわらず、なお土地の人びとに記憶されていたというのも、この時の調査が現地の人びとによほど印象深かったためだろうか。『札幌区史』は、この徳内の行動について、「篠路より豊平川を泝り札幌方面にも探検する所ありたるや疑ふべからず」と確信を持って記している。
結局、この文化三年の調査の結果、翌四年三月二十二日、幕府は辺境の手当が届きかねるという理由で、全島直轄に踏み切った。