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金助赴任時のイシカリ

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 この当時のまず第一の問題は、何度もふれてきたようにイシカリ改革の問題であった。金助もイシカリに関する調書を作成しており、この実現にむけてまい進するところであった。第二に、在住による開発の問題である。この安政四年二月に大竹慎十郎・長坂与一郎がイシカリに入地以降、四年中には一七人程の在住が、イシカリに続々と入地あるいはイシカリ詰を申し渡されている。在住による開発地所の選定、必要物資の補給などをすすめ、イシカリの開発を円滑におこなうことが、急務の問題となっていた。第三には、銭箱から千歳にむかうサッポロ越新道の開削であった。新道に関しては六月二十二日に、「新道切開之義ニ付申上候書付」が老中に提出され、開削に着手されており、問題としては解決にむかいつつあった(第五章参照)。第四には、アイヌの「撫育」の問題があった。これは第一のイシカリ改革と不可分の問題であり、改革の中で実現がはかられねばならない問題であった。
 イシカリには、当時、以上の四点の主な問題が存在していた。金助はこれらの解決にむけての責務が課されていたのであり、金助の役割は非常に重大であった。