御請書
私儀西蝦夷地石狩領字サツホロ麓ニおゐて、八幡宮之末社取建田畑開墾をも仕度候奉願候処、願之通被仰付候間、右造立ニ付信心之者ニても押て申勧候儀は致間敷、且神体勧請之儀は神祇道作法も御座候ニ付、吉田家へ申立許容を請可取計間、御仰渡奉承知候、仍御請書如件。
安政六年未年正月廿日
私儀西蝦夷地石狩領字サツホロ麓ニおゐて、八幡宮之末社取建田畑開墾をも仕度候奉願候処、願之通被仰付候間、右造立ニ付信心之者ニても押て申勧候儀は致間敷、且神体勧請之儀は神祇道作法も御座候ニ付、吉田家へ申立許容を請可取計間、御仰渡奉承知候、仍御請書如件。
安政六年未年正月廿日
[箱館総社八幡宮大神主]菊池出雲守
御奉行所この請書では、「田畑開墾」のことも述べられているが、先の願書にも、「於場所々々氏子之者申勧メ、田畑開墾仕度奉存候」とあり、神社の設立と同時に氏子の移住と開墾も期待されていたのであった。八幡宮では蝦夷地での勢力扶植を眼目としており、箱館奉行では信徒の移住、田畑の開墾を眼目としていた。両者の思惑には微妙なズレがみられたが、ここにきて札幌市域の重要性が大きくクローズアップされてきた。
八幡宮はその後、万延元年(一八六〇)に社地仮渡をうけ、文久元年(一八六一)にイシカリに留主居所がもうけられ仮勧請がなされる。さらに文久三年に、下司藤枝正彦(多仲、江差姥神神社宮司)が造営方として派遣され(石狩往復)、以降イシカリに滞留する。しかし、ハッサムの造営はすすまず、「蝦夷地為総社石狩札幌之清地ニ奉斎度宿志ニ候得共未果候」というように、ついにサッポロへの創立はならなかった。八幡宮はイシカリに仮勧請のまま明治をむかえ、五年(一八七二)に石狩八幡宮となる。