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分領地の選定

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 ここで武四郎が述べている、諸産物の販売、分領地の選定、以上の二点は義勇に課せられた使命でもあった。義勇が蝦夷地の調査中、近況報告や緊急事項を連絡した、藩の重臣への書簡が四通残っている(佐賀県立図書館)。
 ① 安政四年二月二十四日付、田中(善右衛門か)宛。
 ② 同 五月十一日付、野田参政(忠八)宛。
 ③ 同 九月二十八日付、田中善右衛門宛。
 ④ 同 十月十二日付、野田参政宛。
 以上のうち、①は犬塚与七郎との連名である。①では諸藩の蝦夷地での動向を記し、分領地の出願は他藩に遅れをとらないように懇請している。そして分領地の候補としては、次の四カ所をあげている。
 (一)カラフト
 (二)サッホロ・シリベツ山、ウナベツ山
 (三)ユウフツ辺よりトカチ川、クスリ川、アッケシ・ネモロ・ノッケ等さしはさみユウベツ山辺迄
 (四)エトロフ・クナシリ島
 この中の(二)には、サッポロ山、シリベツ山(羊蹄山)周辺の道央部が含まれていた。石狩川周辺に関しては、次のように述べている。
右之土地ハ成富兵庫殿か夏ノ禹王か出候て水利をよくいたし候ヘバ、河ニ附テ広キ腴田も有之趣ニテ、幕府よりも心を用ひに相成居候由、乍然拙の考ニて成丈(なるたけ)東南を受候処、西を受候所迄はよろしからん、大河ある所なれハ木を伐り出し候便利は勿論平地も可有之、田畑ニよろしからん。

 これによると義勇は、イシカリ川流域は佐賀藩士で治水術にひいでていた成富兵庫、夏の禹王のように治水が施されれば有望であると述べ、その流域の東南部、あるいは西部を分領したらよいと述べている。このために、(二)サッポロ山があげられているのであった。