さて大友は、一般に開拓の基本的方法を次のように述べている。
開拓之本源ハ、初メ新道新川共屈曲之無之様何分ニも里数を詰切開き、人夫歩馬之通行を助ケ、舟車之運送弁利を補へ、湿地ハ堀りを深く通し悪水絞り抜き乾地と成し、素より乾地ハ用水を流し耕耘を助ケ、居宅を出来、然ル上ニ人民を移し歩馬を与へ候順序ニ有之
とし、さらにその人民を移すに当たっては、
第一開墾人を移し、居宅家財農具迠与へ、扶助米を渡し、数万金を被為掛候上ハ、自分耕し券禹(眷属か)を扶助し独手に永続可相成筈ニ候得共、数百年之後迠永続来候内地と違ひ、発業之初メ三四ケ年之間ハ何程所業而已相励候共、風土ニ不馴民力ニテ脱力も可生義ハ必然之義、然ル時ニハ是非種々之以御世話不得止事、職業相貫候様父母之子を恤ミ候様思召不被下半(候脱か)テハ開拓難立義と奉存候。
(石狩郡トウヘツ御開墾之義ニ付伺 大友文書)
この文書は佐々木長左衛門と連名の伺書中の一文である。要するに大友の開拓方法とは、新道・用排水路を開削して人馬・物資の流通と耕耘可能な環境を造成し、しかる上に、特に当初において、風土になれない移住農民に対し、居宅、家財、農具、飯米等におよぶ充分な扶助を与え、もって自立・自営の農民を創出することにあったといえよう。