慶応三年における移住をみると、正月に越後国蒲原郡並積村出身の久八の家族五人(ただしこのうち娘だけは当時奉公いたし未着とあり除く)、津軽小畑出身の徳三郎の家族五人(ただしこのうち悴の長作は未着とあり、慶応四年末までにも入地をみないので除く)、同じく津軽の金木村出身三九郎家族二人、七月にはいり南部出身の磯吉の家族三人、津軽原子村出身の卯之助の家族三人、秋田新谷村出身の三太郎の家族三人、さらに八月には、南部五戸出身の嘉蔵の家族四人、津軽阿次ケ沢出身の佐次右衛門の家族七人、それに津軽下高田村出身の長八の家族四人が入植した。またこの年の六月に、中川金之助の農夫としてすでに近くのコトニに入植していた荷三郎(家族三人)が、イシカリ御手作場農夫として編入された。
ここに慶応三年末の新規移住農民は、荷三郎を含めて一〇戸、三七人(うち男二〇・女一七)である。
初年の慶応二年からこの三年を累計してみると慶応二年入植者中、家族に遅れて入植した者三人、出生一人、嫁入り一人の五人が加増し、また死亡一人と家族の離村一人の計二人が減じたのを差し引きして、戸数一九戸、人数七五人(うち男四三人、女三二人)となった。