この荒井金助の招募による農民について、招募年、農民名など、史料によって若干の異同がある。このうち招募年については、岩村判官『札幌開拓記』が万延元年(一八六〇)に四人(うち現在、弥兵衛、喜三郎、忠次在地)を移し、文久元~三年に一一人(うち現在、乙吉、源次郎、中蔵、左平、庄兵衛、七之丞、松右衛門の七人在地)を移したと、順次に入地した旨の記述があるが、当時一般の状況として、おそらく大筋はこの通りであったと思われる。『事蹟材料』、『荒井金助逸伝』(以下『逸伝』)などは、むしろ一時に入地したように読める表現であるが、これは順次入地を一括して記したものであろう。前出『逸伝』では、招募先は「房総常野」(現在の千葉、茨城、群馬、栃木各県)および奥羽地方と記され、農民名は、忠司、弥平、乙吉、七之丞、喜三郎、常助、松四郎、辰之丞、治助、政吉となっている。